科学は人間本来の好奇心に起因する。

周辺の事物、現象、生命に対する、そして自身に対する気になるということと好奇心。その好奇心はなぜそうしようかと思う問いで自然に続く。

私たちは程度の差はあるが、周辺現象に対して多くの問いを投げて疑問を抱く。そのように見る時、もしかしたら私たち皆は生まれつき科学者で、生きながらいつも科学をしているのではないだろうか。

しかし、科学には主観的で断片的な判断でなく客観性と合理性を保障する一定の論理的過程がある。 科学では一般的に好奇心から始まるものの好奇心を質問で決定化する。 質問を決定化する過程が科学では一番重要だ。 良い問いだけが良い答を導くためだ。


私たちはたびたび問題をよく解くのを良い科学者の資質と考えるのにこれは相当な錯覚だ。 もちろん与えられた問題をよく解く能力も科学者の重要な資質だがさらに重要なのは重要な問題自体を発見してこの質問を科学的に決定化する能力だ。


良い問題の発見には科学者個人の人間的成熟度がとても多く反映される。 良い問いには既存知識に反して他の考えることができる容器、見えないのを見ることができる感受性、世の中や事件を新しい角度で見ることができる創意性と深い思考などが要求される。

したがって良い科学的な結果・結論には人間的に成熟することも含まれていて、ある科学者がする科学は結局その科学者の考えと人生の反映なのだ。 しかしここまでは文学・芸術など創作活動をする他の分野でも同じように要求される要件であろう。

仮説と検証、そして解釈に関して

良い質問を得るためには、質問に対する明確な仮説を作って仮説で予測される結果を実験や理論で証明する過程を経なければならない。この過程でありふれている錯覚は私たちが仮説を証明することができるという考えだ。

事実論理的に話せば、多くの場合に私たちが証明できるのは‘仮説が間違う’ということだけのことだ。 私たちはよく色々な仮説がまちがいを証明することによって代案仮説が正しさを証明する過程を経る。

それで科学では生半可な断定を警戒しなければならない。
これと関連しても多くの誤解があるようだ。 しばしばどんな現象に対して‘これはこうしたよ’と断定的に科学知識を伝達する場合を特に大衆媒体で接するときは、本来科学技術者は背筋が寒くなることを感じる時が多い。

多くの場合に科学知識は確率的現象であるためだ。
よく科学で例えば‘どんな現状の原因は95%あるいは99%確率でこれだ’と説明する理由もここにある。 それで科学的知識はこのような確率を十分に検証できるデータに基づかなければならない。

ミライへ繋がる私たちの生活

遺伝子は受け継がれ、脈々とその情報を残し、伝えていく。そして、それは、また文明の面でも同様だ。財産・権利は孫や子に相続され、これもまた脈々と受け継がれていく。生物は、根本的に連なり、そして伝えていくものだ。子や孫に社会的な活動の成果を継承させる行為は、ごくごく自然に成り立って行ったのかもしれない。そう考えると、相続税、固定資産税などの継承を妨げる制度は生物学的に見た場合、違和感のあるものなのかもしれない。※相続 弁護士 アヴァンセ//生物としての“相続”を考える。